この記事は中編です。前編は以下からどうぞ。
前編では、モラ夫の態度のビフォー・アフターを紹介しました。赤ちゃんの娘には無関心、小学生になった娘には執着、と正反対の様相を見せていました。
中編ではその変遷の経緯や要因を辿ります。モラ夫との別居後に冷静に当時を振り返ることで、初めて理解できました。我が子のツラい体験を詳らかにすることには心理的な抵抗がありますが、今現在、モラハラ禍の渦中にいる方が、なにかしら生活を変えるヒントを得られたら幸いです。
モラ夫が娘に過干渉になったわけ
最大の要因は娘
モラ夫が、無関心だった娘に過剰に関わるようになった最大の要因は、娘が成長して、娘に利用価値が生まれたからです。というか、利用価値がなければ執着しませんでした。
赤ちゃんが相手だと、こちらが労力・時間を差し出さねばなりません。娘が成長して、言葉が通じるようになり、また他人の感情を推し量れるようになりました。それに気づいたモラ夫は、娘をコントロールしようとするようになりました。
娘が2~3歳だった頃と小学生の時で、対比できるエピソードがあります。
【2~3歳の頃】
母娘の公園遊びに、珍しくモラ夫が付いてきました。モラ夫は子供の普段の遊び方を知らないので、公園で上手に娘の相手をできません。父娘二人で遊ぼうとしても、どうしても娘は私のほうに来てしまいます。
それに腹を立てたモラ夫は、怒気を込めて娘にこう言いました。
「お父さん、もう帰るからね!」
娘は「ばいば~い」と手を振り、その後も屈託なく遊びました。
ちなみにモラ夫は、自分が言った通り、家に帰りました。
【小学生の時】
下の子(息子)もいっしょに4人で外出しました。息子の手を引いて歩く私に、普段は受験勉強を理由に父親に拘束されている娘が、まとわりつきます。
モラ夫は娘に説教を垂れました。曰く、モラ夫を仲間外れにするな、母さんは息子君の世話で忙しいから娘ちゃんが気を使え、と。そして、モラ夫は娘にこう言い放ちます。
「お父さんだけ、もう帰るよ!」
これで娘はモラ夫の機嫌を取るしかなくなります。私がモラ夫に抗議しても、娘を諭してもダメ。モラ夫の望むとおりにしなければ、ペナルティを受けるのは娘です。娘は手始めに私にこっそりと言いました。
「お父さんが気を悪くするから近くに来ないで」
結局、モラ夫が家に帰ることはなく、陰鬱な雰囲気で家族4人の外出は続行されました。
娘が成長してモラ夫の意図を汲み取れるようになったために、モラ夫が娘に依存するようになったとしても、もちろん娘自身に落ち度があるわけではありません、
モラ夫の暴走に対処できる人がいたとすれば、それは私でした。次のセクションでは、私がモラ夫の暴走を許してしまった理由を述べます。
私がモラ夫の暴走を許した理由
娘とモラ夫を取り巻く状況に私が気づくのが遅れた。これが、最終的にモラ夫の教育虐待を許してしまった、そもそもの原因です。ようやく気づいて対処しようとした時にはすでに遅し。モラ夫にも娘にも、私の言葉は届かなくなっていました。
モラ夫の娘への依存心・執着心は、引き返せないところまできていました。私の言うことはすべて、妨害・攻撃・悪口などと、ネガティブな捉え方しかされませんでした。
一方、娘のほうも、父親への恐怖心が募っていました。母親である私の言葉どころか、自分の意思・価値観さえも否定して、父親の言い分を受け入れることを優先。私が良かれと思って言ったことでも、娘は両親の板挟みになって苦しむだけでした。私は娘にかける言葉ひとつひとつに敏感になり、自主規制をかけました。
当時お世話になっていた臨床心理士には「お母さんの言うことを聞かなくてもペナルティはないけれど、お父さんの場合はペナルティがあるから、お父さんの言うことを優先する」と言われました(相談体験)。
無関心から過干渉へ至る経緯
それでは、 モラ夫の娘への態度が「無関心」から「過干渉」へ振れるまでの経緯を時系列に沿って紹介します。当時の私の認識も示します。
- 無関心
前編で先述したとおり、乳児期は手のかかる娘にまったくの無関心。
- 渋々関わる
モラ夫に娘の世話を頼むとイヤ~な顔をされたことがあったが、それがこの時期。下の子供(息子)が生まれ、実母の手助けを得ていたが、細々とモラ夫に娘を託すことも増えていた。
ただ、この時期はそんなに長く続かなかった。
おそらくモラ夫は、「○○しないと、○○するぞ」みたいな言い方で、娘の行動をコントロールできることをすぐに学んだと思う。そうでなければ、娘との関与を強める方向へはいかなかったはず。
- 支配を進めていく
モラ夫が娘の世話をイヤがるどころか、積極的に連れ出したりするようになった。周囲からも「イクメン」と言われるようになる。
当時、私はモラ夫が積極的に娘と関わることを好ましいとさえ思っていた。私の育児の手間を軽減できたし、それまでの関わりが希薄すぎた親子が通常の父娘関係を結ぶのは悪いことに思えなかった。
娘が私に甘えてくることが増えたが、下の子供に焼いているのかと私は思っていた。しかし、今、振り返ってみると、モラ夫がいないところだけで、私にベタベタしてきたのは変だった。
- ひっそりと過干渉になる
モラ夫が娘の学校の勉強に関わるようになったり、塾を自分で契約して娘と通うようになったりする。
この頃、モラ夫が倉庫代わりに使っていた部屋(モラ夫部屋の隣)を片付けて、娘の部屋にする。娘はもともと1階にあるリビングで勉強をしていたが、モラ夫の指示で2階の自分の部屋で勉強するようになる。
ちょうど私が、娘の成長に合わせて、娘一人で宿題・学校の準備・外出などなどをさせようとしていたタイミングだった。娘が一人で宿題をしていると思っていたのに、私の代わりにモラ夫が、娘にがっつり口出しをするようになっていた。
リビング学習の頃は、私が娘の宿題の面倒を見ていると言っても、食事の用意や下の子供の世話をしながら。モラ夫の場合は、娘の机を覗き込んで、書いているそばから内容をチェックするようなことをしていた。
時を合わせて、学校で配布されるプリントや連絡帳なんかも(娘ではなく)モラ夫が管理するようになる。
モラ夫はさらに塾を契約して、自分で送り迎えをするようになる。
私はちょっとした違和感を感じることもあったが、真剣に考えて言語化することなくスルーしてしまった。周囲のママ友なんかから「パパさん、積極的に面倒をみてくれていいね」なんて言われて、「そんなものか」と思ったりもした。
なお、娘といっしょに過ごす時間が急激に減っていき、私は一抹の寂しさも感じていた。でも、娘の方がもっと寂しい思いをしていたと思う。
- 堂々と過干渉になる
違和感のある言動をモラ夫が重ねることで、モラ夫のせいで娘がツラい思いをしていることに、ようやく私は気付いた。
前の段階との違いは、モラ夫の過干渉が人にバレているかどうかだけで、娘への過干渉・囲い込みが激化していった。
私がモラ夫におかしな点を指摘したり、児童家庭支援センターやカウンセリングに通ったりすることで、過干渉が止むことはなかった。むしろ、より巧妙に行われるようになった。
モラ夫の口からは「教育のため」「受験のため」という言葉がよく聞かれた。昔からある、横暴な親の「しつけのため」という言い訳と同じだ、と私は思った。
中編は以上です。
私は自分が気づかなかったことを免罪符にはしたくないと思っています。後編(以下)では、私に何ができたのかを考えます。
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