長編小説『永遠の仔』(レビュー)の主要な登場人物 久坂優希に、本を贈るとしたら? 彼女は小学校四年生のときから、父親に性的虐待を受けます。周りに助けてくれる大人はいません。
モラハラ本・虐待本・DV本などを読み込んできた私が、物語の中の、家族に苦しめられている登場人物に勧める本を勝手に選定。さらに、加害者の理不尽な言い分・態度に対して、さまざまな書籍からの引用を交えながら反論・否定します。この方針についての詳細は「贈る本:はじめに」をご確認ください。
取り巻く状況
以降ネタバレがあります。
まずは、久坂優希を取り巻く状況を説明している部分を、本から引用します。
きっかけから。二月、病気がちの母親 (志穂) は小学四年生の優希を自宅に残し、優希の弟(聡志)を連れて実家で養生しています。ある日、父親(雄作)は仕事がうまくいかず、家で酒をあおりながら、 優希を相手に上司や営業先への怒りをぶちまけます。
以下、少々長くなりますが、本から引用します。
雪の日だった。雄作には酒が入っていたように思う。一緒に風呂に入ろうと言われた。いつものことだったが、なぜか、そのときは断った。無意識に、いやな予感がしたのかもしれない。
すると突然、雄作が怒った。
「なんだ、お父さんが嫌いなのか」
怒鳴るように言われて、優希は足がふるえた。一緒に入ることを承知すると、雄作はまた優しくなった。
雄作は、浴槽内で、志穂と志穂の実家の悪口を並べはじめた。上司か、営業先の相手らしい人物への怒りも混じり、どんどん愚痴を吐き捨ててゆくうち、彼は泣きはじめた。(略)
優希は、風呂場から抱き上げられ、寝室に運ばれた。
「いいのか……いいのか、優希……」
何度か訊かれた。
しかし、何のことかわからないため、答えようがなかった。(略)
それから、志穂たちがいないときには、たびたび繰り返されるようになった。しばらくして、こんなことをしていいのと、疑問を口にした優希に対して、
「おまえは拒まなかっただろ」
雄作は言った。
優希はびっくりした。雄作は、彼女の目をじっとのぞき込んできて、
「おまえに、いいかと訊ねたら、おまえはいいとうなずいたよ。だから、お父さんは踏み越えたんだ。お前が許してくれたんだ。それに、いまさらもう引き返せないんだよ」
彼は、ほかにもいろいろな言葉で、優希にすべての罪があるように言った。拒否することも、許そうとしなかった。
そして優希は母親(志穂)に助けを求めますが、拒絶されます。
志穂に救ってもらおうとした。
だが、彼女は優希を非難した。嘘つきだ、ひどいことを言う、と耳をふさいで、遠ざけた。
あのときには、志穂の厳しい表情や、もうやめてと耳をふさいだ恰好、どうしてそんな嘘を言うのと非難した言葉などで、途中でやめるしかなかった。
性的虐待をした父親へ
子供に愚痴るな
仕事上のストレスも、妻や妻の実家に対する不満も、大人の領域の話題。本来なら自分で自分の面倒を見るなり、愚痴る相手を大人にすべき。健全な夫婦関係ならば、妻と気持ちを共有できるかも?
幼い子供に、大人の愚痴・不安・不満を伝えても、解決にならないどころか、子供を傷つける!
『共依存かもしれない――他人やモノで自分を満たそうとする人たち』(レビュー)という本では、「家族が性的虐待をする」というセクションで次のように述べています。
子どもを妻や夫の代わりにするのは、家族のなかで健康的でない役割をおわされるということです。
共依存かもしれない――他人やモノで自分を満たそうとする人たち
たとえ親が子供に性的な接触をしなくても、親が子供に悩みを打ち明けたり、子供を「小さな奥さん」「この家の主婦」などと呼ぶのは健全ではない、としています。
子供のせいにするんじゃねえ
冒頭の引用部分で、父親は「おまえはいいとうなずいた」「お前が許してくれた」 と言っています。報道なんかでも、「無理やりじゃなく同意の上だった」「子供から持ち掛けてきた」「子供が喜んだ」みたいなことを、加害者が裁判で平気で述べていることを確認できます。
そんな訳あるか! 子供に責任を転嫁しているんじゃねえよ。一億歩譲って、たとえ子供がOKしたとか誘ったとか感じたとしても、そこから先に進んでいいわけないでしょうよ。
こういうズルい言い方って、強者による古典的なゴリ押し論法なんですよね。専門家でさえ、被害者の方にも性的願望があったかのように唱える者たちも。
ただ、それを否定する文献もちゃんとあります。ここでは『DVにさらされる子どもたち――加害者としての親が家族機能に及ぼす影響』(レビュー)から引用します。
ジョンストンとローズビーは、女の子には父親との性行為を空想する傾向があると述べているし、ジョンストンとキャンベルは、幼い女の子や男の子は異性の親に性的関心を抱き、愛情を独占して同性の親との競争に勝ちたいという願望があるという、まさにエディプス・コンプレックス理論そのままの見解を示している。だが、そもそもフロイトがエディプス・コンプレックス理論を考え出したのは、近親姦にあったという女性クライアントがあまりに多いので、その理由を説明し、虚偽の訴えであることを証明するためだったことを思い起こす必要があろう。
ジークムント・フロイト(1856年 生~1939年 没)といえば、名の知られた精神科医・心理学者ではありますが、その業績についての評価はどうも…な、感じ。
お前が泣くな
子供の前で、自分のために泣くな。
『永遠の仔』 では、父親が娘の前で泣くシーンが複数出てきます。冒頭で引用した部分以外にも「おれを捨てるって言うのか」などと、自分がかわいそうで泣いています。子供相手の泣き落とし……。キ、キモっ。
結局のところ、泣くことで子供の罪悪感や良心を刺激して、「かわいそうな自分」の要求を通そうとしていますよね。怒鳴ったり暴力を振るって恐怖心から子供を従わせるよりも、自分が悪いことをしていると感じずに済むから、楽なんですかね。
こういうふうに良心の呵責を感じずに悪事をはたらく人の見分け方について、『良心をもたない人たち』(レビュー)では以下のように論じています(太字は原文ママ)。
信じてはいけない相手を、どうやって見分けるか。(略) 多くの人は、正体がかいま見えるぶきみな行動や動作、おどすような言葉づかいなどを期待する。だが、私はそういうものの中に、頼りになるヒントはひとつもないと答える。最高の目安になるのは、おそらく”泣き落とし”だと。もっとも頼りになるヒント、平気で悪事をする人びとのあいだでもっとも普遍的な行動は、ふつうの人が予想するように、私たちの恐怖心に訴えるものではない。私たちの同情心に訴えるものなのだ。
悪人とは、罪悪感を感じても屁とも思わない人ではなく、罪悪感を感じない人だと思います。
子供が虐待されているのを看過した母親へ
想像だにしなかったことが子供に振りかかったときに、母親なら子供を救えるでしょ、とは思わない。同じ、子を持つ母親として、親としての無力さを感じることは、私にもあった。
でもせめて、子供をさらに打ちのめすことは避けてほしかった……。
『永遠の仔』の後段で、母親は娘(成人後)に手紙を書きます。娘の優希がその手紙について述べた部分を引用します。
でも、終わりに、母は書いてくれました。父とのことについて、決して私が悪いのではないと。
この言葉こそが、子どもの頃に聞きたかったものです。打ち明けたときに、即座にもらいたかった言葉です。(略)やはり母から一番に言ってもらいたかった。ただ、遅くても言ってもらえた。与えてもらえた。わずかだけれど、救いです。
ここに書いてあることが、 この母娘の正解なのかな、と思います。
贈る本
子供のころの優希へ
子供のころの優希に本を贈るとしたら『わたしの家族はどこかへん?――機能不全家族で育つ・暮らす』(レビュー)を選びます。いろんな親が描かれていますが「性的な虐待をする親」についても掲載。
また、これは「10代のセルフケア」シリーズの中の1冊で、家族などに頼れないときに自分でできることが提示されています。
大人になった優希へ
成人後に贈るなら『日本一醜い親への手紙――そんな親なら捨てちゃえば』(レビュー)です。毒親の元で大人になった子供たち100人が、それぞれの親に向けた思いを手紙という形式で吐露しています。優希の父親や母親と同様の親も登場。しかも複数います。
もう1冊。もし孤独感を癒し共感を得るところから一歩進んで、何か手を打ちたいと思ったなら『毒になる親』(レビュー)を贈ります。性的虐待を扱った本は、カウンセラーなど専門家向けのものはありますが、被害者向けのものはあまり目にしません。『毒になる親』は古典ながら、ありとあらゆる毒親を扱っています。
性的虐待について言えば、さまざまな誤解(以下)を解いてくれます。
- (誤解1)近親相姦などというものはめったになく、まれなことだ。
- (誤解2)近親相姦などというものは、貧困家庭や教育のない人々のあいだで、あるいは都会から遠く離れた過疎地で起こることである。
- (誤解3)そういうことをする人間は、社会的にも性的にも逸脱した変質者である。
- (誤解4)性的に満たされない生活を送っている人間がそういうことをする。
- (誤解5)特に十代の少女は大人の男性を誘惑するようなそぶりを見せることがよくあり、少なくともいたずらなどをされる責任の一部は本人にもある。
- (誤解6)ほとんどの近親相姦の話は子供の性的な願望が作り出した空想や白昼夢で、作り話だ。
- (誤解7)子供がいたずらされるのはほとんどが見知らぬ相手からであって、家族などよく知っている人からそのようなことをされることはあまりない。
よろしかったらご一読ください。
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